تسجيل الدخول景黎様の手が、文を握ったまま止まっていた。
『思い出せ、景黎。皇后を最後に見た夜、薬湯の前に部屋にいたのは玉蘭だけではない』『鼠に聞け。床に落ちていた黒い衣の端を』『真犯人は、毒を入れた手だけではない。毒を止められたのに止めなかった手だ』 景蘭様の字は、美しかった。 腹が立つほど。 人を傷つけるための文なのに、筆の運びだけは整っている。 景黎様は、その美しい毒を黙って見つめていた。 茶庫の中は冷えている。 青い紐、赤い紐、黒い紐。 棚に並んだ茶包みが、まるで罪人の首札のように見えた。 黒紐。 還子茶。 血を眠らせ、記憶を曇らせ、母の声を近くする。 多量にて従順、少量にて夢見。 景黎様は、過去にそれを一口だけ飲んでいた。信頼を最後の封にした。 青羅の紙に書かれていたその一文は、薄い刃のようだった。 刺さっているのに、どこから血が出ているのか分からない。 蘭々なのか。 白瑛なのか。 景黎様なのか。 老医官様なのか。 皇帝陛下なのか。 母なのか。 あるいは、私自身なのか。 白家は、人を疑わせるのがうまい。 それも、ただの疑いではない。 疑うと罪悪感が生まれる相手を、わざと疑わせる。 信じたい人を疑わせる。 疑った瞬間、自分が少し汚れたような気持ちになる。 その汚れが嫌で、目を逸らす。 すると罠が動く。 嫌な仕組みだ。 実に白家らしい。「鈴花」 景黎様が紙を取り上げようとした。 私は反射的に押さえた。「まだ見ます」「もう十分見ただろう」「まだです」「顔が青い」「いつもです」「いつも青いなら問題ないと思うな」 景黎様の声が硬い。 怒っているのではない。 焦っている。 青羅の紙は、景黎様にも刺さっている。 信頼。 私たちが一番信じている人。 その中に第三封がある。 景黎様は、疑われる側にも疑う側にも立つ人だ。 皇弟。 死んだと思われていた人。 外朝に担がれかけた人。 そして、今は私の台車の横にいつもいる人。「景黎様」「何
青羅が消えた。 その報せは、火より早く後宮を走った。 内侍省の書庫番。 十五歳。 女として生まれたが、男装して内侍見習いとして育てられていた子。 白家の子の帳では、未覚醒。 けれど、赤紐を扱える可能性がある。 死帳の第二封を開く予備鍵かもしれないと見られ、保護されたばかりだった。 その青羅が、医療房へ移される途中で姿を消した。 残された紙には、こうあった。『第三封は、もう開いています』『還名裁議に、白家の名を入れよ。入れなければ、白家の子は全員、自分で名を捨てる』 白家の名を入れよ。 名を捨てる。 どちらも、嫌な言葉だった。 私はその紙を膝の上に置いたまま、しばらく見つめていた。 白い紙。 整った字。 筆の払いに迷いがない。 でも、最後の「捨てる」の一画だけ、少し力が強い。 怒りか。 恐れか。 あるいは、泣くのをこらえた手の震えか。「鈴花」 景黎様が、私の顔を覗き込んだ。「考える顔をしている」「考えないと困ります」「倒れる顔でもある」「それは別です」「別にするな」 私は台車の上にいた。 はい、台車だ。 もう説明するのも悔しい。 朝から老医官様に「寝台から出るな」と言われたのに、青羅失踪で医療房へ移され、今は医療房の奥にある小さな控え部屋で台車ごと固定されている。 固定されている、という言い方は嫌だが、実際、車輪に布が噛ませてある。 逃亡
行けない。 そう分かっているのに、体は勝手に動こうとした。 寝台の端を掴む。 布団を押しのける。 足を下ろそうとする。 その瞬間、母の手が私の腕を掴んだ。「鈴花」 母の声は、ひどく静かだった。「行けないわ」「蘭々が」「分かっている」「白瑛も」「分かっている」「なら」「行っても、あなたは穴の中へ飛び込めない」 言葉が刺さった。 分かっている。 分かっていることを、母の口から言われると腹が立つ。 でも、母の手は震えていた。 私を止める手が。 自分の娘をまた失うのではないかと怯える手が。「母さん」「怒っていいわ。でも止める」「……」「あなたが行って倒れたら、蘭々さんも白瑛さんも助ける人が減る。あなたはここで考えなさい。いつもみたいに、嫌なところを見つけなさい」 母は、私の腕を放さなかった。「私を嫌っていてもいい。許さなくてもいい。でも今だけは、母親らしいことをさせて」 ずるい。 そういう言い方は、ずるい。 私は歯を食いしばった。 胸の奥が熱い。 怖い。 蘭々が落ちた。 白瑛が落ちた。 死帳の第二封が開いた。 それなのに私は、寝台の上で何もできない。「鈴花さん!」 駆け込んできた下女が、さらに続けた。「景黎様が炭庫へ向かわれました! 老医官様も、
白啓を死なせてはいけない。 そう決まった瞬間、部屋の空気はひどく嫌なものになった。 人を売った男。 母たちを壊した男。 白家の腹の底で、帳と香と名前を使い、人の人生に値をつけ続けた男。 その男を、必死に生かさなければならない。 白啓が死ねば、死帳の第二封が開く。 何が起きるか分からない。 分からないからこそ、止めなければならない。 人間というものは、時々、正しさとは別のところで胃が痛くなる。「……水を」 老医官様の声が飛んだ。 医療房の奥、白啓が運び込まれた部屋には、すでに数人の医官と薬童が走り回っていた。 白啓は寝台に横たえられている。 顔色は悪い。 唇も薄く、呼吸は浅い。 だが、完全に意識を失っているわけではない。 時折、まぶたが動く。 まるで、自分がどれほど周囲を慌てさせているか、確認しているようだった。 嫌な老人だ。 本当に、嫌な老人だ。「鈴花、顔」 蘭々が横から小声で言った。「顔色ですか」「顔も顔色も」「最近、そればかりです」「だって鈴花、白啓を見て『この人を助けるの嫌だな』って顔してる」「しています」「隠さないんだ」「隠す余裕がありません」 蘭々は、少しだけ困った顔をした。「私も嫌だよ」「はい」「でも死なれたら困る」「はい
白啓のいる隔離室は、朝でも薄暗かった。 窓は細く、香炉はない。 壁際には水桶。 扉の両側には兵。 床には、老医官様が撒いた白い粉が薄く残っていた。 毒や香の粉が落ちれば分かるようにするためだという。 その粉の上に、白啓の足跡はない。 彼は椅子に座らされている。 手足を拘束されている。 それでも、あの老人は相変わらず客人のような顔をしていた。「おはようございます」 白啓は言った。「ずいぶん大勢で。朝の挨拶にしては、物々しい」 誰も返さなかった。 景黎様は私の台車の横に立っている。 蘭々は梨花の手を握っている。 白瑛は帳を抱えている。 老医官様は薬箱を持っている。 景蘭様は輿の中。 皇帝陛下も来ていた。 梨花は、蘭々の手を握ったまま白啓を見ていた。 顔色は変わらない。 だが、手は冷たいらしい。 蘭々が何度も握り直していた。「白啓」 皇帝陛下が口を開く。「この子について聞く」 白啓の目が、梨花へ移った。 ほんの少しだけ。 本当にわずかに。 だが、いつもの白啓ではなかった。 人を見る時の、値踏みする目ではない。 帳を見る目でもない。 もっと嫌な目だった。 大切な品を、他人の手に触れられている時の商人の目。「梨花」 白啓は、柔らかく呼んだ。 梨花の肩が跳ねた。 蘭々がすぐに言
月琴は、泣きながら叫んでいた。「その子は梨花じゃない! 梨花は死んだ! 私が見たの、白家の地下で、梨花は死んだの!」 医療房の奥にある小さな部屋。 そこへ連れてこられた月琴は、以前より痩せていた。 玉蘭妃様を美しい主として崇め、白玉宮の香を守り、春燕の腹帯を焼こうとした少女。 白家の子の帳では、覚醒済み。 感情過多、制御困難。 そんな冷たい文字で書かれていた少女。 その月琴が、今は感情そのもののように震えている。 両手は縛られている。 だが、縛られていなければ梨花に掴みかかっていただろう。 いや。 梨花と呼ばれた少女に。「月琴」 白瑛が静かに呼んだ。「落ち着いて」「落ち着けるわけないでしょう!」 月琴は白瑛を睨んだ。「あなたも白家でしょう? 知っているでしょう? 梨花は処分された。帳守のくせに帳を盗み見て、白啓様の怒りを買って、香庫の奥へ連れて行かれた。戻らなかった!」 梨花と名乗った少女は、私の寝台のそばで立っていた。 顔色は変わらない。 変えないようにしている。 小さな手が、赤い紐を握っている。 だが、さっきより指が白い。「私は梨花です」 少女は言った。 抑揚のない声。「帳に、そうあります」「嘘!」 月琴が叫ぶ。「帳に書けば、死んだ子が生き返るの!? 白家はそういうことをする。死んだ名を、次の子に貼るの。あなたは梨花じゃない。あなたは……」 月琴は言葉を詰まらせた。 その先







